笛吹市議会議員 山本とみたか
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鎮目の空襲

・・・昭和20年7月6日午後11時40分---あの夜の被災者たちの証言集・・・

 

春日居町・鎮目の空襲 6

 「二人の分まで長生きを」・・・・              佐藤正枝
あの時、私は5年生でした。亡くなった平岡美春さんや、鎮目貴子さんたちとは大の仲良しでした。二人の家はとても大きく、なかでも鎮目さんの家は、当時の小学生の目にはお城のように見えたものです。学校の帰りなど、よく遊びに寄らしてもらったりしたものです。二人同志も家が近かったので仲良しで、私たちも、羨ましく思ったこともありました。その二人があの空襲でともに亡くなってしまい、残念でなりません。同級生の私たちのなかから二人も犠牲になるなんて悲しい限りでした。
空襲の夜のことは、まだ子供だったので、おぼろげにしか覚えていません。いま思い出せば、あの夜は、妹の文子をおんぶしてにげました。うちには防空壕が掘ってなくて伊丹さんの家の防空壕に入れてもらいました。
その時はもう甲府のほうの空は、真っ赤に見えました。「これはえらいことになった」と、大人の人たちが話しているのが、耳にはいりました。そのうちこの辺にも大きなザザーというような大きな音がしはじめました。みんなで外に出てみると、妙厳院のあたりから炎がたっており、その手前の家の屋根の上でだれかが水をかけているような姿が見えました。その光景だけは、子供のころからずっと私の脳裏に焼きついていました。
あとは雨がざあざあ降ってきて、ずぶぬれで家に帰って来たことくらいしか覚えておりません。二人の同級生が死んだというのも次の日か、その次の日に聞いたのかはっきりしませんが、保雲寺におまいりにいった帰り道で、「これが美春さんの着ていた服の焼け残りだ」といって、保雲寺橋の近くの御地堂さんのあった所で見せてもらった記憶があります。死んでからそういくにちもたっていなかったと思います。
あの空襲のあと、家でも庭に人が立ってはいれるくらいの、大きな防空壕を作りましたが、それにはあまり入ることもなく、戦争が終わりました。もう少しでも早く終わっていれば、二人も死ななくてすんだのに、とよくみんなで話し合ったのを覚えています。それに、戦争がおわってからもつらかったのは、平岡の店に買い物にいくと、二人のお母さんたちから「生きていれば、こんなに大きくなったのにねえ」とよく言われたことでした。家族にとっては、もっともっとつらかったことと思います。
あれから、もう50年近くにもなったのですよね。私たちも還暦を迎える年になってしまいました。この間、私も2回ほど同級会に出席したことがあり、そのたびに死んだ二人のことを皆で話し合ったことがありました。私たちの同級生は、二人のほかにも若死にした人たちが多くてびっくりしています。残された私たちが、二人のほか、その人たちの分まで長生きして供養をしてあげたいと思っています。
あの戦争のころで、もう一つ思い出すのは、疎開していた人たちのことです。鎮目にも何人かの人たちがきていました。皆な親戚などの物置などに住んでいましたが、やはり都会から来ているだけあって、持ち物が全然ちがっていました。ゴムマリを持っていたり、着せ替え人形を持っていたりして羨ましく思ったものです。よく借りにいったことなどありました。あの疎開の人たちも戦争が終わるとみんなまた都会へ帰ってしまいましたが、どうしているかと、ときどき思い出しています。

 「脳裏を離れぬ地獄図」・・・・                山下知徳
あの日、私は勤めていた国鉄・甲府駅が非番の日で、家にいました。夜になって空襲警報が鳴り出して間もなくだったころ、当時、岡部村の消防団長をしていた松本の内藤勝三郎さんという人が「甲府がいま爆撃されているが、空襲を恐れてはならない。逃げないで火は消してしまえ」と、メガホンを持って住民を鼓舞するよう叫びながら、青梅街道を上っていくのを見ました。
私の家族は、両親と長男の私のほか、兄弟が8人もおり、それにタバコ屋をやっていたおばあさんがいて、私はタバコ屋のほうで、おばあさんと暮らしていたので、大通りを走っていたその人を見かけたのでした。「これはえらいことになりそうだ」と、父もいってまっさきに牛小屋の牛を引き出して逃げていきました。あのころ『四つ足の動物を焼くとその家にはたたりがある』とかいわれたので、父も真っ先に牛を連れ出したのだと後でいっていました。そのあと、私は少しでも荷物を出した方がいいと重い、ふとんや衣類など、裏の畑に出していました。するとドカンという大きな音が近くで聞こえました。それでびっくりして山口の、そのころすべり山といっていた、いまの滝田さんの家のあたりに逃げ
ていきました。後で分かったことですが、大きな音は、萩原允さんの裏の田んぼに爆弾が落ちたものでした。
あの時、落ちてきた爆弾というのは、6角形をした長さ50センチ、太さ5センチ位の焼夷弾を36本束にしたもので、それが空中でばらばらになって落ちてくるとかいわれました。ところが、その爆弾だけはばらばらにならず、束のまま落ちてきたらしいとあとで言われていました。あれがばらばらになって落ちてきたら、この辺もほとんど焼き尽くされていたこととおもいます。運が良かったです。
また、このあたりに爆弾がなぜ落とされたかと言う説には、甲府で落としきれなかった分を落としていったというのと、もうひとつ、国鉄で機関車を焼かれないため、甲府駅から各地へ移動させていたが、石和駅から東はきた機関車が、たまたまスパークして、光を放ったのを、米軍機は地上からの砲撃をうけたものとかんちがいして、この辺の落としていったとかいわれました。そこで、私もあとで機関区で聞いてみると、機関車は逃がしていたそうですが、スパークの花火が原因かどうかまでは分からないということでした。
ところで、あの晩はかつてないというくらいの激しい豪雨があり、古道あたりの火事もある程度でおさまったわけですが、私のところでは、気を利かせて出しておいた荷物が水浸しとなり、なにも使えないありさまでした。
次の日に勤めに行きました。汽車が動かなかったので、歩いていくと、甲府の町は大騒ぎでした。酒折を過ぎてからは、ところどころに焼け残った土蔵が立っているだけで、あとは一面の焼け野原。まだくすぶっているとこらや、残った土蔵のなかには、ぱっと火を吹いて割れていくなど、物凄い光景でした。
また、善光寺を過ぎたあたりからの川の中には、黒こげになった人の死体がごろごろしており、まったく異常な、この世のこととは思えないありさまでした。あれは、川のなかに避難した人たちの上から、送電線が切れて落ちてきたため感電死してしまったのだとも聞きましたが、あの地獄図はいまだ脳裏を離れません。
あのころはまた、米軍機からよくビラがまかれてきたものでした。たしか『3月、4月はサクラの国、7月、8月はアメリカの国』とかあったりしたけど、それを持っていると巡査につかまるとかいって、大人からは怒られたものだった。ただ、その宣伝ビラがいい紙だったので、拾ったのを皆隠したりしていたものでした。
そんな騒ぎが続いていたころ、私のところにも、当時、赤紙といわれていた召集令状がきました。甲府49連隊の樋口部隊長の名で、千葉の東部連隊・鉄道隊に8月20日に入隊せよ、というものでした。千人針を縫ってもらったり、千葉へいく列車の割引券をもらったりして、準備しているうちに終戦となりました。あの赤紙は記念にいまでもとってあります。終戦の日が15日ですから、戦争があと5日伸びていたら、私もどうなっていたことか、思えば不思議な気分がいまでもしてきます。

 「消防ポンプを引き出したが」・・・                  鎮目 一

あんときゃ凄いもんだった。甲府が空襲されていると聞いたもので、すぐに火の見にのぼってみた。そのころ、火の見はいまの馬場さんの家の裏に消防小屋と一緒に立ててあったので、うちからもすぐ近かった。上にあがってみると、もう山岸のむこうあたりが、真っ赤になっていた。こりゃすごいやと高みの見物をしていると、だれか下のほいからメガホンで「空襲がきても逃げないで火を消せや」といいながら、自転車で走ってきた。
火の見の下までくると、その人が「そこでなにをしている。あぶねえから早くおりろ」と、こっちに向かって叫んだので「おりゃ火事を見てるだ」というと、「火事じゃねえ、今夜は空襲だぞ」とその人は怒りながら上のほうへ走っていった。
そのうちに、飛行機の爆音がしたかとおもうと、山崎あたりから火の手が上がってきた。こりゃえらいことだ、とおもったので、鐘をじゃんじゃん打ち続けていると、目の前の台湾さんあたりで、どかーんという大きな音がして火があがり、燃え始めた。
下にとびおりるようにしており、消防小屋からポンプを引き出したが、いかんせん一人では、道路まで出すのが精一杯。すると古道のほうからやってきた人が「そんなもんじゃまにあわんど、あぶねえから早く逃げろ」というので、家に帰ってみると、おやじさんが体の弱かった姉さんをお蔵にいれ、観音開きを閉めていた。「なにをするで」というと「火が入らんようにしなきゃ、あぶねえじゃねえか」と怒られた。
おやじさんは、百姓が好きだったせいか、こんどは野良道具を堀のなかへ放り込みはじめた。また「なにするで」と聞くと、「空襲で焼けてしまえばこれから百姓ができんじゃねえか」と、また怒られた。今の世では、まるで馬鹿げたはなしだけど、昔の人は野良道具を大切にしていたからね。
するとこんどは、「おまんは屋根にのぼれ」とはしごを持ってきた。おやじさんは、バケツで堀の水をくみはじめ「これをはやく屋根にかけろ」と、下からどなってきた。みんな逃げてるのに、うちはどうするつもりなんだ、と思いながらも、そのころのわら屋根に水を掛け始めていると、前のくらやん(広瀬さん)の家や、隣の村長さん(中村さん)の家まで焼け始め、屋根の上にいても熱くてかなわんようになってきた。
そこでまたおやじさんに「熱くてかなわん」というと、「熱かったら体にもかけろ、早くしんとこっちにも火がつくぞ」と、どやされ夢中で水をかけていた。18,9の若い時だったからあんなこともできたし、おやじも火事場のくそ力であんなに頑張れたのだと思う。どのくらいたってからか、土砂降りの雨が降ってきて、回りの家の火事も消えてひと安心したものだった。
よくまあこの家は焼け残ったものだ、とみんなにいわれたけど、それにゃそれだけの苦労があったわけで、今思えば夢のようなことだけど、えらいことだった。


 「死ぬ時はみんな一緒に」と母は・・・                山本富貴
あの夜、いつだれにおこされたのか、いまになってみるとはっきりおぼえてもいないが、大変の騒ぎのなかで逃げるのに懸命だった。当時の私の家は、前にも記したとおり、今のおいがたの所で、私が子供のころは精米所をやっていた。今でも、私のすでに亡くなっている両親のことを「精米屋のおじさん、おばさん」という人もある。
いえも現在とは全然ちがい、南の方に瓦葺き二階建ての母屋があり、その裏にわら葺きの精米所をやっていた物置きの大きいような建物があった。父は兵隊にいっており、あのころは、祖母のとみ、母・常代のほか兄弟が8人いた。13歳の長女・幸代を頭にして年子の私、あとは2つ違いごとに生まれ、一番下だった攻などは生後2ヵ月だった。
戦時中は10人の子供を生めば、国から表彰されるということで、わが両親もがんばったようであるが、8人目で終戦となり、表彰どころではなくなった。それでも10人目を目指したのか、戦後も1人生み9人兄弟となった。
前置きが長くなってしまったが、ともかく男手のない子沢山のなかでの空襲である。それに家畜も牛、豚、山羊、鶏と飼っていたのだから、その騒々しさはいまでは想像できないほどである。また家のなかには、収穫したばかりの小麦や大麦の俵があり、精米所になっていた物置きのほうには、刈り取ったままの小麦が積み込まれていた。
たたき起こされた子供たちは、生まれたばかりの攻を母が抱き、その上の2歳児・武志を長女・幸代が背負い、4歳児の豊子を私が連れ、あと伝二、晴紀、徳子の3人の子供たちを祖母が引き連れて山口の方へと逃げた。逃げる前に母は小麦の俵などを、家の前の庭に掘ってあった防空壕のなかに運び込んだという。ただ、この防空壕は2メートル4方くらいの穴を掘っただけのもので、屋根はなかった。だから、せっかく運び出したものが、あの夜の豪雨にあって水浸しとなってしまい、あとでまた大変苦労したものだった。
さて1家10人は、まさに難民行列のごとく、平等川の橋をわたり、いま私の家があるところが、田んぼだったのでそこの麦わらの中へかくれた。すごい爆音とともに、雨が降ってきた。麦わらのなかにいられなくなり、今の村松さんの前のところの小さな橋の下へ逃げ込んだ。ところが、川の水が増してきて、ここにもいられなくなった。
「学校の防空壕へ逃げろ」という母の号令で、みんなで雨のなかを、いまの春日居中の庭隅にあった防空壕へと逃げ込んだ。ここもかなり一杯だったが、「赤ちゃんは奥へいれてやれ」という、大人たちの声で小さい子供たちは奥へ入れてもらった。そのうち、弟の伝二が「小便したい」というので、外に出てみた。すると目の前の山崎地区の家々が幾軒も燃えていた。大火災というのを見たのは、このときが初めてだった。しばらく2人で見ていたが、そのうち大人たちも出てきて「こりゃえらい事になったもんだ」などと話しながら火事を見ていた。
すると母がどこからか来て「山本の子供たちはみんなこっちへ来い」と、防空壕の近くにあった大きな松の木の下で叫んでいた。行ってみると「こうなると、いつ死ぬかわからない。死ぬ時はみんな一緒のほうがいい。みんなまた9俵地へいけ」と号令した。9俵地というのは、今私が住んでいる家のあたりにあった田んぼのことで、最初に逃げたところである。
雨のなかをずぶ濡れになりながら歩いていると、鎮目の上のほうでも火事になっていたが、『もうどうなってもいい、みんな死ぬのだ』と、死ぬということが、どういうことかも分からず、ただ母のあとをついて田んぼにきた。濡れた麦わらをまとめたり、むしろを集めたりしてその中にもぐっていた。寝込んでしまったのか、起こされたときは朝になっていた。
母や祖母はもう帰ったらしく、そこにはいなかった。目のあいた順にぼつりぼつりといえに帰った。母たちは家の防空壕に放り込んだ麦の袋を引き出し、むしろにひろげていた。家も焼けなかったし、牛や豚の鳴き声もしていたのでほっとしたのを、かすかに覚えている。あとで母たちに聞いたところ、牛小屋のすぐ裏の田んぼに爆弾の落ちた跡があり「あと2メートルも近ければ、牛小屋に落ちていた」ということだった。
濡れた衣類を干したり、家の回りをかたずけたりしていたが、「古道の方で幾軒も焼けたり、死んだ人もいる」という近所の人たちの話だったが、「焼跡にはまだ爆弾が落ちていたりするから子供は見に行くな」と、母に強く言われ、見に行きたいのを我慢したしていたことなども思い出される。
家の防空壕からせっかく引き出した麦からは、芽が出てしまうなど、後になってもいろいろな事があった。しかし、家が焼けなかったことや、生後2ヵ月の赤ちゃんも無事だったことなど、次の日には「よく助かったものだ」と、祖母や母とともに赤ちゃんを囲んで、貧しいながらも一家揃って団らんの時を過ごした光景が、いま走馬灯のように思い出される。

あとがき
始めに鎮目美子さんのところに伺ってから、1年10ヵ月もたってしまいました。早く早くとは思いながらも、なかなか計画通りにいきませんでした。目標は今年の空襲記念日・7月6日までにはと思っていました。ようやくゴールデン・ウイークにはいり、まとめのあとがきにこぎつくことができました。当初は被災した家の関係者には、全部聞きとりをしておこうとも思っていましたが、なかなか思うようにいかず、手が回りませんでした。
また、当時のことをよく知っている人たちからももっともっといろんな証言を聞いておきたいと計画していましたが、その時間もなくなってしまいました。2,3人から聞き取っては馴れないワープロに取り組んできましたが、自分でメモした字が3日もたつと自分でも分からなくなる始末。おまけに寒ければこたつで、暑ければ扇風機の前で、テレビに見入ってしまう時間も多く、なんとも申し訳ない次第です。
でも、10何人かの人たちから貴重な証言を聞くことができました。あの有名な作家の深沢七郎さんの名がでたり、戦後、町からただ一人、代議士となった松沢一さんと関わりがあった話など、聞くほうもびっくりもしました。しかし、なんといっても、あの夜の悲惨さに胸が痛くなる思いが、それぞれの証言者の言葉の端々にでており、文章だけでは表現できないもどかしさを感じました。
会社のほうは土曜日も休みとなり、時間の余裕はでてきましたが、昨年4月から突然に区長職がとびこんできたことなどを、さまざまな不完全部分の弁解のまとめとして、ご理解のほどお願いします。取材にご協力していただいた方々に厚く御礼致します。お話ししていただいたこと全てがまとめられなかったり、文中には意にそわない点や、人によっては記憶違いや証言に差異もありますが、読者のみなさまには、すでに約50年という時間も経過していることなどあわせて、ご了解のほどをお願い致します。


取材・編集:山本富貴略歴
昭和8年11月23日、故山本盛義・常代の長男に生まれる。岡部小から旧制日川中入学、学制変更で日川高となり27年卒業。明治大短期新聞科卒業。
山梨時事新聞記者13年のあと、同社廃刊のため毎日新聞記者20年。青森支局次長、編集委員を経て、松本支局長を歴任。63年定年退職。現在・三井興業へ勤務。鎮目下区長。


冊子名:春日居町 鎮目の空襲
−あの夜の被災者たちの証言集―
発行:平成6年6月6日
取材・編集:山本富貴
印刷所:稲村印刷
焼け残った鎮目一さんの家とお蔵
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