笛吹市議会議員 山本とみたか
  • プロフィール
  • 議会だより
  • 鎮目の空襲
    • 鎮目空襲第一
    • 鎮目空襲第二
    • 鎮目空襲第三
    • 鎮目空襲第四
    • 鎮目空襲第五
    • 鎮目空襲第六
    • B29関連リンク(外部リンク)
    • 甲府空襲リンク(外部リンク)
    • 甲府空襲リンク2(外部リンク)
  • 短歌
  • メール
  • ブログ

鎮目の空襲

・・・昭和20年7月6日午後11時40分---あの夜の被災者たちの証言集・・・

 

春日居町・鎮目の空襲 4

 「捜しものをしていた」という義父・・・・       中村美也子
中村実は私の父にあたる人ですが、実父ではありません。実さんと妻・きむさんとの間には子供がなかったため、私と夫の靱負(ゆきえ)とが養子なはいりました。あの空襲のころには、私達は、鰍沢の専売公社の社宅にいたものですから、鎮目の空襲のことはあとで知ったものでした。
焼けたと聞いて、帰ってきてみると、家はもうなくなっており、義父も亡くなっておりました。私も28か29歳のときでしたので、あまり詳しくは当時のことは覚えてはおりません。
近所の人や親戚の人たちに聞いた話では、空襲のさい、家には焼夷弾が落ちてきて焼け始めたそうです。そこへ国府の人たちが来てくれて、火事は消してくれたということです。父たちも逃げていて無事だったといいます。
ところが、次の日になってから、屋根裏に残っていた火が、ふたたび発火して焼けてしまったという話です。父はこの二度目の火事で、捜し物をしていて焼け死んだとかいわれます。どちらにしろ、空襲の犠牲者になってしまったことは事実です。
父はなにを捜していたのか、なぞですが、当時、父は67歳くらいで、気むずかしい医者でした。戦時中には医者の仕事はしておりませんでしたが、家の隅の一部屋は学問所兼薬局という部屋がありました。父はここですごす時間が多かったそうです。あるいは、この部屋のなかに重要なものを置き、これを捜しにいったのかもしれません。
父の父、私にとって祖父にあたる亮順という人は、まだこの村に学校がなかったころ、鎮目学校という勉強所をつくり、これが明治政府になってから、学校令がしかれ、岡部小学校になったということです。祖父はこの小学校の校長を永くやっていたといいます。ですから、教育については父も熱心なところがありました。しつけなども今では考えられないくらい厳格なところがあり、私たちも苦労したものです。父の墓は保雲寺さんにあります。戒名は実證院厚生仁醫居士とつけられています。戦争犠牲者となってしまった父も無念だったと思います。いつまでも供養を続けていきたいと思っています。

 「お祈りが天に通じて」・・・・               平岡千代子
私の家はあのころ、夫の松雄と二人きりでした。店は雑貨と酒など売っていました。2階建ての木造でした。店の中には、けっこう荷物がおいてあり、いつも空襲には心配しておりました。空襲になったら何を持ち出すか、つねに主人と相談していましたが、荷物はどうせ持ち出せないと思い、いざとなったら、先祖の位牌だけは持ち出そうと思っていました。
このため、位牌はいつも金物で作ってあった米びつのなかに入れて置きました。あの夜も空襲のサイレンを聞いたので、位牌の入った米びつを持って逃げる準備を始めました。主人がさきに言えを出て、防空壕を見に行ったところ、すでに近所の人たちで一杯だということでした。
そうこうするうちに、前の台湾さんの家が燃え始めたり、焼夷弾の火が飛び始めてきました。体の弱かった主人に咲きに逃げるようにいい、私も位牌の入ったカンを持って表にでました。もうあっちこっちから火が出ており、どっちへ逃げたらいいのか分からなくなりました。
道路には、消防ポンプが置き去りになっており、大勢の人達が悲鳴をあげたり、泣きながら走っていました。主人はもうどこに行ったのか分からなくなりました。私は皆と一諸に平等川のほうに逃げていきました。雨がざんざん降ってきましたが、火事になった家は、ローソクが燃え上がるようにあっちこっちで焼けていました。
美春ちゃんが、橋の下でやけどをして泣いていましたが、雨がどんどん降ってきて、川も沢のように水があふれ、どうなってしまうのだろうかと、心細い思いをしていました。体の弱い夫のことが気になりましたが、捜しようもなく、夜が明けるのをただただ待っていました。暗闇があけ始めるとそうそうに、家にいってみました。幸いにも、私の家だけはぽつんと焼け残っていました。主人も帰ってきており、「よかったなあ」と喜びあいました。
しかし、鎮目さんの家も平岡さんの家も、焼け落ちており、隣の浅川さんの所や、その前の川口さんの家まで、貰い火で火事になっていました。私の店だけどうして焼け残ったのか、不思議に思ったほどでした。米びつに入れて持ち歩いた位牌に、いつも「仏さん守ってください」と、お祈りをしていたことが通じたのかと、思えてなりませんでした。そこえ、大けがをしている友雄さんのところの幸子さんと、橋の下で泣いていた大やけどの美春ちゃんが運び込まれてきました。
すぐに、徳条にいた看護婦さんを呼んできて手当てをしてもらいましたが、薬も包帯もなくどうしようもなくて、医者の来るのを待っていました。美春ちゃんのやけどは本当にひどいもので、まともには見ていられないほどでした。確か最初はお寺(保雲寺)に疎開してきていたお医者さんが診てくれたような気がします。あとで窪田先生も来てくれたように思います。ところが、やけどがひどくて夕方この家で亡くなってしまいました。
あの晩には、表の戸は閉めて逃げ出したのですが、店のなかの商品はかなり荒らされていました。食べるものも、着るものもなかった時代ですから、あの騒ぎのなかでは取られても当たり前とあきらめていました。死んだ娘さんたちのことや、周りじゅうで焼けてしまった家の人たちのことを思えば、商品がなくなったことくらいは、あきらめのつくことでした。私の店もあれからずいぶんいろんな事がありましたが、世のなかも本当に変わってしまい、今になれば空襲があったなんて嘘のようですよね。もう戦争はこりごりです。

 「胸の中から消えない空襲」・・・・・              浅川まつみ
家では空襲のときまで、豆腐を作っていました。豆腐屋が豆腐を作ることは、当たり前
ですが、あの何もない時代でしたから、豆腐を作るのもなみたいていの事ではありませんでした。おまけに、夫は子供3人置いて、前の年の19年に兵隊にいってしまい、家には父・留次郎、母・まきと義光、敏子、光男の小さい子供ばかりでした。
私も結婚して4年半たっただけの、27歳の時でした。あの晩も豆腐づくりで、疲れて寝ついたばかりの時、空襲警報のサイレンにたたき起こされました。まさか鎮目にまで爆弾が落とされるなんて思いもせずに、子供3人を連れて東田んぼといわれていた、今の天宝のほうへ逃げていきました。
私の家には、直接に爆弾がおちたのではなく、隣りの家の火が屋根に燃え移ったものだと、あとで近所の人に聞きました。だから家にいて、火を消せば、焼けなくてすんだという人もいたようですが、あの空襲さわぎのなか、夫でもいればまだしも、年寄りと子供3人の留守家族ではどうしようもありませんでした。おまけに、家には油揚げの油もあったので、火の回りも早くあっという間に焼けてしまったようです。
あのころは、前の道路の幅も狭くて、向かい側もすぐ近くにあったので、火は簡単に燃え移ってきたようです。しかも、わら屋根でしたから焼け落ちるのも早かったようです。逃げるときには、あわてていたものですから、ちゃんちゃんこ1枚で着替えるものもなく、次の日からは、親類や近所の人たちに助けられて暮らしたものです。
焼けてからは、豆腐も作れず、家には田畑もなかったので、父は大変に苦労したようです。手も不自由だったのに、山から木を切り出してきて、それを薪にして疎開の人に売ったりして、やっと生活していました。
戦争も負けてしまい、兵隊にいっていた人も復員軍人といわれて、ぼつぼつ帰ってくるようになりました。夫もきっと帰ってくると信じて毎日待っていました。「復員の人たちは夜帰ってくる」といわれていたので、毎晩、毎晩、靴音に耳を傾けて待っていました。家を建てたのも、他の焼けた人たちよりもずっと遅くなってからでした。それでも、家ができてからは、また豆腐づくりをはじめました。ローソクの火をつけながら、豆腐を作ったのを、今でも思い出します。
とうとう、夫は帰ってきませんでした。23年になってから、戦死の公報というのが届きました。村でも一番遅い公報でした。遺骨があるというので、貰いにいきました。木の箱をあけてみると、遺骨どころか、中には木切れに夫の名前が書いてあるだけでした。夫は餅が好きでした。兵隊にいって間もなく、まだ静岡の兵舎にいるとき、餅を背負って面会にいったのが最後でした。
結婚してわずか4年半、あれからもう50年ちかくになるのですね。時のたつのは速いけど、あの戦争や空襲の痛手はそうそう、胸のなかから消えるものではありません。私の一生についてまわるでしょうよ。
Copyright 2008 山本富貴. All Rights Reserved.