
・・・昭和20年7月6日午後11時40分---あの夜の被災者たちの証言集・・・
| 春日居町・鎮目の空襲 3 |
あの日は、田んぼで作っていたジャガイモを堀り、お田植えの準備を夫たちとやっていました。夕食をおえたあと、空襲警報のサイレンが鳴り響きました。あのころはもういつもいつも空襲のサイレンが鳴っていたので、あまりびっくりもしませんでした。だれかが言えにきて、「今夜の空襲では甲府のほうで爆弾が落ちたらしい」といって帰りました。 それから間もなく、近くの消防の半鐘がなり、これはただごとではないと逃げる用意をしました。表にでてみると、西のほうがかなり明るくなっており、空には飛行機の爆音もきこえ、甲府のほうから飛行機がこちらに飛んできたことがわかりました。これは大変だと思い、家族みんなで家の前に作ってあった防空壕に逃げ込みました。 その時、国道を「爆弾が落ちてきたから、皆んなもっと遠くへ逃げろ」と、自転車で叫びながら走っていく人がいました。どこの家からも逃げ出す人たちで、近所はおお騒ぎになっていました。 最初の爆弾のようなものが、隣りの鎮目さんの家に落ちたとだれかが叫んでいました。するとうちの屋根にも真っ赤なものが落ちてきて、当時のかやぶき屋根がぱっとやけはじめました。私のそばにいた美春が「教科書を忘れた、取りにいってくる」といって、すばやく家のなかに入っていきました。危ないからととめたけど、よほどほしかったのでしょうか、止めるのもきかずにとびだしました。 あたり一面に火の粉や焼夷弾の火が飛び散り、さらに近くでドカンという大きな音がして私は気を失ってしまいました。雨が降ってきて気がつき、いったん平岡の店のほうに行きました。道路は人でごったがえしており、またびっくりしてしまい、足も動かなくなり腰も抜け、思うように動けませんでした。すると行く手のほうからも火事がおきており引き返してきて、こんどは、平等川のほうに逃げていきました。 保雲寺橋の下へいってみると、そこに「あついよう、あついよう」と泣き叫んでいる子がおりました。それが美春でした。何人かの人に見守られながら、寝かされており、「おかあさんが来たからもう大丈夫だよ」と、だれかが声をかけてくれましたが、美春は声をしぼるように泣き続けていました。私が声をかけても、ただ痛がるだけでどうしようもありませんでした。外は激しい雨が降り続き、飛び出すわけにもゆかず、重傷の子供をかかえて、まったく泣くに泣けぬ思いをしておりました。 どれくらいたってからか、雨も小降りになってきたので、なんとか美春を助けたいと思い、まわりにいた人たちの手をかりながら、焼け残っていた平岡の店へ運びこみました。そこには、足を射られていた幸子も寝ており、はやく夜があけて、医者が来てくれるのをただただ祈っておりました。 窪田先生がきてくれ、手当てをしてくれました。しかし、ほぼ全身がやけどしており、とうてい治りそうもないと思っておりました。幸子はさいわいケガだけですみ、ほっとしえいましたが、美春は次の日の午後4時ころ亡くなりました。本当にかわいそうなことをしました。 後で聞くと、美春は焼け落ちてきた家の中で、火をうけてしまい、家の庭から保雲寺橋まで逃げる間、体中が火の海のようなままで、それはそれは物すごいものだったといいます。そんな姿を見た人もきっといまでも覚えてくれていると思います。 いまの医療ならば、あるいは命は助かったかもしれませんが、どうしようもありませんでした。なにしろ足の皮までべろっとむけており、まるで、蛙の皮をむいたようなむごたらしい姿で、大人の親たちだけは見守りましたが、子供には見せられませんでした。葬儀らしい葬儀もしてやれず、次の日に保雲寺に埋めてやりました。これもあとで聞いた話ですが、美春と貴子さんは、あの日、学校から帰ってきたあと、墓地の草取りにいったということです。その二人がともに空襲で死んでしまうなんて、なんという因果なことでしょうね。 美春は背のすらっとした子で、学校の成績も悪くはなく、働きものでした。あのころ、学校でやっていた桑の木の皮をむく大会では、いつも一等でほめられていました。家の農作業もよく手伝ってくれました。生きていれば、もう60歳にもなるのですね。あれから家族もどんどん死んでしまい、私だけ残されました。しかし、あの空襲の日のことだけはいつまでたっても忘れることはありません。 死んだ美春は二女でした。あの当時の私の家の家族は、祖父の友吉・きよ夫婦、父の友雄・睦与夫婦、それに長女の私、二女の幸子、美春、四女の小百合の8人でした。いえでは今と同じように農業をやっていました。水田が6反(60アール)、畑が9反(90アール)くらいあり、畑は主に桑畑だったので、夏の間は蚕を飼っていました。蚕の時は手伝いの人を3人くらい頼んでいたので、にぎやかでした。 家のなかで蚕を飼っていたので、家も大きくしてありました。萱ふき屋根の2階建てで下は広い土間と10畳間が2つ続いてあり、ここと2階で蚕を飼い、家族は裏の納戸とお蔵のほうで生活をしていました。 あの当時、私は小学校を卒業して、石和の石和農蚕学校(現在の石和高校)に通っていました。しかし、戦時体制ということで、学校で勉強をしていたのではなく、毎日、勤労奉仕といって学校から農家へ手伝いにいっていました。自分の家も農家なので、家で働かしてくれてもよいのにそうはならないのでした。出征兵士の家にいって、蚕や麦刈りのお手伝いをしていました。八代や石和の富士見の方へよくいっていました。 あの空襲の日も、夏休みもなく勤労奉仕にいって帰ってきました。夕食のあと、みんな納戸の方で休んでいるとき、空襲警報のサイレンを聞いて避難の用意をしました。あらかじめ、私のところでは、空襲の時には、だれがなにを持ち出すか決めてありました。私はそのとき3歳だった小百合をおぶって行くことになっていました。そして幸子と美春は母と逃げることにしていました。 いったん、庭の防空壕にみんなで逃げ込みましたが、家の屋根に焼夷弾が落ちてきて屋根が燃え始め、「ここではあぶない、もっと遠くへ逃げろ」と、おじいちゃんが叫ぶのを聞いて、私は小百合をおぶったまま外にでました。その時には家のあちこちで火が出ており、逃げる人たちで大騒ぎになっていました。だれかが引き出してきた消防ポンプが家のまえの道路にありましたが、水をはじく人もなくそのままになっていました。 家族ともばらばらになってしまい、保雲寺橋の下にいったところ、そこはもう人でいっぱいで、「お寺のほうがいい」とだれかがいったので、堤防を上がって山沢橋のところから山の畑のほうに逃げていきました。雨がざんざん降り、堤防で滑って転んだりしてあちこち傷だらけでした。 山道のところに、そのころ洞穴といっていた石の洞窟がありました。古代の遺跡の1つだったもののようでした。その洞穴はちょうど防空壕のようにもなっていました。ここにも大勢の人がいましたが、子供をおんぶしている私をみて「置くの方へ入れし」といってくれた人もあり、奥のほうへ行きました。置くたはいっても2,3メートルのところでした。小百合もびっくりしたためか、逃げている間は泣きもせずに、背中でちいさくなっていました。 雨漏りのする洞穴でしたが、小百合をおろしてあやしていました。そのうち、あとから来た人が「えらいことになったぞ、台湾さんも隣りの平岡さんも全焼だ。ほかにも古道のほうでいく軒も火事になっている。犠牲者がでるかもしれんど」といっていました。古道というのは、国道140号のわたしの家の前から妙厳院さんのほうへゆく道のことをそう呼んでいたのです。この人の話で私の家も焼けてしまったことが分かりました。がっかりして腰が抜けてしまい、地面にぺたりと座り込んでしまいました。 それから、どのくらいたったのかわかりませんが、夜が明けてきて、足元が見えるようになり、皆さんもぼつぼつ帰り始めました。家はどんなになってしまったのだろうと、不安になりながら、とぼとぼと堤防を帰ってきました。昔は、いまの標さんのアパートのへんに大きなケヤキの木があり、その下を通って帰ってくると、私の家のお蔵は焼けずに残っているのが見えました。「ああ良かった」と思いながら、家のまえにきてみると、あの大きかった家はあとかたもなく、焼け落ちていました。また庭には池くらいの大きい穴があいていました。あとでわかったのですが、それは爆弾の落ちた穴だったのです。 くすぶっている家財道具をかたずけていたおじいちゃんが「おお二人は無事だったか、美春がなあ、えらいことになったぞ」といったまま、口をつぐんでしまいました。「どうしたのおじいちゃん」と聞いても、だまりこんだままでした。 とりあえずお蔵に入り、小百合を寝かしつけていると、おばあちゃんがきていいました。「美春がなあ、かわいそうにおおやけどをしちまって、いま平岡の店のほうで休ませてもらっている。だめかもしれんなあ」とつぶやくように話してくれました。私も様子を見に行かねばと立ち上がると、「あんなむごい姿は子供は見んほうがいい」と、止められてしまいました。平岡の店というのは、今のローソンのことで、私のところと親類で、当時も雑貨店をしており幸いにも焼けなかったので、美春はここで手当てをうけ、春日居で開業していた窪田医院の先生にみてもらっているということでした。 おばあちゃんたちの話によると、美春はいったん防空壕にはいったあと、教科書をとりにゆくといって、母の手をふりきって家のなかにはいっていったそうです。そのときはもう屋根のほうから燃えており、母も美春の名を呼びながら堤防のほうへ逃げていったそうです。いつ美春が焼けている家からでてきたか分かりませんが、カバンを前にかかえながら、着ていたものの背中に火がつき、「あついよう、あついよう」といいながら、堤防の方に走っていたそうです。 あとで聞いた話ですが、美春の背中には、焼夷弾の火が燃え移ったということでした。焼夷弾というのは、べっとりした重油のようなものがなかに入っており、いったん物につくとなかなか落ちないということでした。 美春が背中を焼かれながら逃げていく様子は、それはまさに地獄絵だったと、あとで近所の人が話してくれました。いまでも、想像するだけでも、身がふるえるような感じがしてなりません。 家から50メートルほどの、保雲寺橋の下の平等川の水で、美春はだれかに火を消してもらったそうです。火を消してもらったあとも、美春は「あついよう、あついよう」と泣き叫んでいたという話です。医者にみてもらったものの、ほぼ全身のやけどで、ひと晩苦しんだあと次の日の昼ころ亡くなりました。 美春は苦しみながらも「おねえちゃんにあいたい」とか「アメリカ人のかたきをうって」とかいっていたそうです。 どんなふうに葬式をしたのかも、今はもうほとんど覚えておりません。美春のやけどとともに、幸子も足に貫通弾をうけたり、手にもけがをしました。今ではよくなっていますが、妹二人はほんとうに大変な被害を受けてしまいました。美春のことを思うとくやしくてなりません。でも、いまさらアメリカ人のかたきをうつわけにもいかず、世界は平和であってほしいと願っています。 |
| 美春さんらが逃げていた保雲寺橋(昔のものは建て替えられた) |
![]() |