笛吹市議会議員 山本とみたか
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鎮目の空襲

・・・昭和20年7月6日午後11時40分---あの夜の被災者たちの証言集・・・

 

春日居町・鎮目の空襲 1
 (表紙)あの夜の被災者たちの証言集 犠牲者となった3人のうち2人の少女はことし還暦の年に・・・ 取材・編集 山本富貴
(目次)まえがき・・山本富貴 鎮目地区の空襲のあらまし(町誌から漏れている焼失家屋)

* 被災者たちの生々しい声
『貴子は「カバンを取ってくる」といって』・・・・鎮目美子
『「教科書をわすれたから」と美春は家に』・・平岡睦与
『地獄絵だったという美春の最期・・・・・・平岡順子
『捜しものをしていたという義父』・・・・・・中村美也子
『お祈りが天に通じて』・・・・・・・・・・・平岡千代子
『胸の中から消えない空襲』・・・・・・・・・浅川まつみ
『「おばさん助けて」と言われたけれど・・・・萩原中子
『かわいそうだった牛や山羊・・・・・・・・高野秀子
『家の回りは爆弾の跡』・・・・・・・・・・・水野繁子
『実家の田植えにいっている留守に』・・・・・窪田ちゑこ
『残ったのは牛小屋と便所だけ』・・・・・・・川口住野

* あの夜の私の体験
『二人の分まで長生きを』・・・・・・・・・・佐藤正枝(旧姓高野)
『脳裏を離れぬ地獄図』・・・・・・・・・・・山下知徳
『消防ポンプを引き出したが・・・・・・・・・鎮目 一
『「死ぬ時はみんな一緒に」と母は』・・・・・・山本富貴
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 々
(カット画と本文とは関係ありません)

まえがき
『豆腐にて想い出しおり寒き朝おから買いし日戦争始まる』(甲斐芙蓉)この短歌は私がある短歌誌に、ペンネームを使い投稿しておいた歌だが、図らずも今年・1994年版の博文館発行の当用日記のなかで、12月8日の欄外ページに転載されたものである。もちろん、戦争は昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争で、当時、私は8歳、岡部尋常高等小学校の2年生だった。
あのころ私の家(いまのおいがたの所)では、牛や豚、山羊などを飼っており、毎朝のように、浅川豆腐屋さんへリヤカーを引いていって、おからを買ってくるのが私の仕事だった。あの日の朝も、太って赤ら顔の豆腐屋のおじさんに、おからをリヤカーに乗せてもらい帰ろうとすると「ついに戦争だ、日本がアメリカをやっつけた、えらいもんだ」と声をかけられた。
子供の私には、戦争がどんなものか見当もつかなかったが、最初、真珠湾攻撃をしたころは威勢のよかった日本軍も、やがて敗色も濃くなり、20年7月6日には、甲府空襲とともに、わが郷土まで爆撃された。鎮目地区の中心部では、10数戸が炎上、3人が犠牲者となった。その後、広島と長崎には原子爆弾が落下、壊滅的な敗戦を迎えたのだった。
昭和20年8月15日の昼ころ、天皇陛下が、終戦を宣言したというのを聞いた時には何故かほっとしたのを覚えている。それは、父が兵隊から帰ってくるという安心感だったし、電灯もつけられない暗闇の生活から開放されるという喜びだった。
あれからはや49年、世の中は激変した。岡部村も消えて春日居町となり、鎮目地区も300戸を越す世帯となった。そして、あの空襲を知る人たちも数少なくなり、逆に戦争を知らない世代が増えてきている。鎮目の空襲で犠牲になった3人のうち、2人の少女も生きていれば、今年は還暦の年である。
私も33年間の新聞記者生活を終え、この郷土に再び帰ってきた。そして春日居町誌を見ているうちに、あの悲惨だった空襲の記録が、僅か2ページ半(地図を含め5ページ半)にまとめられているのを知った。しかも、被災者のうち、2戸が欠落していることもわかった。そこで、被災にあった人たちの生の声を聞いておこうと思い立ち、聞き取りを始めた。全員までとは手が届かなかったが、一部の関係者の声も集めてみた。
世に出せるほど、立派なものでもないとは思ったが、一つの記録として、ここにまとめてみた。私よりも一つ年下だった、二人の少女・鎮目貴子さん、平岡美春さんへの鎮魂の記との思いも込めて。
空襲のあらまし
鎮目地区の空襲は昭和20年7月6日夜11時40分ころと町誌にある。それによると当夜マリアナ基地を発進した米軍のB29爆撃機約200機のうち、20機が駿河湾を北上し、さらに富士川沿いに本県に進入、約2時間の空襲のあと、伊豆半島西南方面に退去したとある。
この20機による、たった1回の爆撃で、甲府市内の主要地区のほとんどが焼き尽くされ被害戸数1万8千94戸、被災人口8万6千913人、死者740人、重傷者354人、軽傷者894人、行方不明者35人(「甲府空襲の記録」より)とも記されている。

さらに、この空襲の目標は甲府市であったが、近在の次の町村も被害を受けたとして、当時の岡部村、春日居村など13町村があがっている。
春日居町(旧岡部村を含む)の受けた空襲としては、次のような記載があるので、引用させてもらう。『本町の被災地区は鎮目、小松の2地区で、鎮目地区に焼夷弾が投下されたのは甲府市の空襲より数分遅れて、7月6日の午後11時40分ごろ、小松地区が若干遅れて11時50分ごろと推定される。鎮目地区の焼夷弾による大火を見て、宮川地区の警防団が出動したが、小松地区の空襲で直に引き返したという』とある。
さらに『鎮目地区の人たちは若者がいなく老人、婦女子で空襲が始まると山の方向とJR中央線方向に避難し消火活動をする人はほとんどなく、僅かの人が現場で焼けるのを見守っていた程度であった。鎮目地区に投下された焼夷弾のなかには爆弾があり、宅地の石垣を10数メートルも吹き飛ばし、その威力のすさまじさがうかがわれた。このとき不幸中の幸は、物すごい集中豪雨が襲来し火災は延焼することもなく、焼夷弾、爆弾の落下した家(建物)のみにとどまった。若しもこの豪雨がなければ当時ほとんどが草葺屋根であった地区の民家は全戸焼失してしまったのではないかと想像される』と、当夜の状況が詳しく記述されている。

そして、『鎮目地区の罹災状況は次のとおりである』として
1、 焼失家屋
平岡友雄(宗夫)母屋草葺  鎮目滋平(常雄)々瓦葺  山下利男 々草葺
広瀬弘由(ふみ)々草葺   中村重雄(中)々草葺   土橋久仁男 々草葺
高野 昇(芳雄)々草葺   中村 実(昌子)々草葺  窪田栄造(金広)々草葺
浅川留次郎(和人)々草葺  萩原 一 々草葺     高野雅夫(光幸)々草葺
高野 勝(善直)々草葺   妙厳院 物置瓦葺  了見寺(寺)本堂兼草葺庫裡
2、 戦災による死亡者  中村 実  鎮目貴子  平岡美春
3、負傷者  平岡幸子 火傷
4、その他  馬1頭 焼死
以上が町誌に記載されている鎮目地区の空襲災害の被害状況である。焼失家屋のうち、カッコ内は、私が役場で調べた現在(平成6年3月)での戸主、若しくは後継者の氏名である。ところが、聞き取り調査をしているうちに「あの家もたしか焼けたはずだ」という家が、2戸でてきた。
水野栄造(四郎)草葺物置  川口光平(住野)草葺母屋 である。
この2戸が焼失家屋からなぜもれたのかわからないが、2戸ともやけたところから、やや離れた場所に移り住んだため、町誌編纂のさい、調査もれになったのかもしれない。

以上が鎮目地区における空襲のおおまかな状況である。町誌ではこのほか、小松地区の空襲の模様と被災家屋名簿を掲載している。小松地区では、9戸の家屋の焼失のみで、犠牲者がなかったのは、不幸中の幸といえよう。ただ、『小松地区が狙われたのは、小松から石和町の川中島地区の笛吹川堤防沿いの松林のなかに、数千本の燃料が入ったドラム缶が貯蔵されており、また旧春日居村には生糸工場等の空倉庫に軍需品等が積み込まれていたため、これらが襲撃されたが焼夷弾は目標をはずれ小松区に落下したものと推測されている』と記述され、米軍機の狙いまでが、一応推測されている。
では、なぜ鎮目地区が狙われたのか、町誌では触れられていない。当時は「甲府に落としきれなく、余った分を落としていった」などと言われたものだが、それにしては3人もの犠牲者を出した鎮目地区はとんだ災難であり、家族にとっては酷な空襲であった。
以下、いったんは逃げ出したがカバンを取りにいったため、爆弾の落下で娘を亡くした母親、火だるまになって逃げまどっていた少女、火災のあと捜しものをしているうちヤケドで亡くなった老医師。あまりの驚きに腰が抜けてしまった人、消防ポンプを引き出してみたものの、手のつけようがなかった人の話などなど、あの夜を体験した人たちの生々しい証言である。
↓↓ 現在の鎮目地区全景写真2枚 (平成17年6月20日山本撮影) ↓↓
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